世界は等価交換で成り立っている。弁護士として仕事をするなかで気づいたことの一つ。
法廷や契約の場では、等価交換が基本です。何かを得るためには、相応の対価を支払わねばならない。それが近代社会の「論理」の原則。
しかし、将棋盤という名の閉鎖空間には、時としてその理屈が通用しない「不条理な聖域」が存在します。
輝ける「偽りの勲章」
白状しましょう。私は、自分の棋力を相当に過信していました。根拠はありました。かつて、プロ棋士 深浦康市先生と飛車角落ちでさせていただいたとき、3戦2勝という戦績でした。
この2勝という成績、これは私の中では、プロ棋士を盤上に沈めたという、輝かしい「戦勝記録」です。
あの日、大駒を欠いたプロの陣形を、私は論理(と数多の歩)で蹂躙。
終局後、深浦先生は、静かに「お見事でした」と微笑んでくれました。
私はその微笑みを「棋士としての私への敬意」だと信じて疑わなかったのです。
そしてその時私は思います。
俺は選ばれし者、あるいは、論理の申し子なのだと(※偉そうに言ってますが、飛車角落としてもらっています。)。
「これ、やっちゃってもいいですか?」
今回、意気揚々と乗り込んだ将棋教室。
子供が将棋を習いたいと切望し、付きそいがてら、私も将棋教室へ赴いたところ、私にも将棋をさす機会がありました。
屈辱のハンデ
しかし、そこに用意されたのは、「飛車角桂香」を落とした四枚落ち。
「4枚落ち」とは何か、これは、11人対6人くらいでサッカーをするようなものだ。
いやいやいや。有利すぎる。
盤面を一瞥した私の脳内に、傲慢なノイズが走ります。
「馬鹿にするなよ」という苛立ち、そして、「お前はプロより強いのか?一瞬で屠ってやる」という暗い野心が・・。
対局開始から数分後、私の飛車が敵陣深くへと侵入し、まさに最強の駒「龍」へと成り成らんとする絶好の機が訪れました。
盤上のパワーバランスは完全に私に傾いている——そう確信した私は、不遜にも、勝ち誇った笑みを堪えながらこう呟きます。
「……先生、これ、やっちゃってもいいですか?」
「どうぞ」と静かに応える教室の先生。
私は全速力でその懐に踏み込んだ。大駒が四枚もない相手など、もはや武装解除された兵士も同然。
地獄で木の葉が舞う
でも、そこからが真の地獄でした。
私の放つ渾身の攻め、重厚な論理に基づいたはずの一手一手が、ひらひらと、まるで見えない風に舞う木の葉のようにかわされていく。
手応えがない。刺さらない。
将棋の駒において最強の「龍」は敵陣に鎮座しているにもかかわらず、なぜか一向に牙を剥くことができない。
私の龍は、物理的に封じ込められたわけではないのです。ただ、この龍は、どのルートへ動いても決定打にならず、何一つ効果的に機能させてもらえない。
平手(ひらて)であれば、互いの大駒を交換し、決定的な隙に打ち直すことも選択肢となります。
しかし、相手の陣地に最初から飛車も角もない以上、その選択肢はない。安い駒と相打ちにされる行為は、単なる「一方的な駒損」。
私の将棋は、盤上の経済学において無力化されました。一戦目、惨敗。
「善戦」という名の罠
もちろn、私のプライドはまだ死んでいません。
二戦目の盤面を前にして、私は必死に自分への弁明を組み立てます。
「……そうか、一戦目は相手が4枚落ち。大きすぎるハンデだと錯覚して、飛車が成り込めた瞬間に気が緩んだだけだ。本気を出せば、論理的に負けるはずがないんだ」
しかし、二戦目も一戦目と同様の結果。
指導~盤面制圧~
その後、丁寧な指導が入りました。その内容は、極めて合理的で、かつ破壊的なものでした。
「盤上の中央を制すること。そして、単発ではなく『数の攻め』を結合・連続させること。そうすれば、攻めに迫力が生まれます」
その言葉は、法律実務で証拠を積み上げ、外堀を埋めていく私の論理的思考に、ピタリと符合。
なるほど、盤上を制圧するという発想がなかった。数の攻めによる面的な制圧。それこそが、駒落ちという不平等条約を打破する鍵だったのか。
私は三戦目、その「数の論理」を忠実に実行。
するとどうだろう、1戦目、2戦目よりもはるかに「善戦」できました。盤面制圧の重要性よ。
私の駒たちが中央で結合し、連続した波となって敵陣へ押し寄せます。あと一歩。あと一押しで、牙城を崩せる。
しかし、そこまででした。
指導~踏み込みの力~
「迫力ある攻め」に私は陶酔し、数の結合という論理の正しさに酔いしれていたその瞬間に、冷徹な一撃が放たれました。
「……踏み込みが、足りませんでしたね」
そう告げられたときには、既に手遅れ。
敵陣奥深く、相手の玉を追いやるも、私の攻めは一手足りない。相手にひらひらといなされ、逆に相手の金銀四枚が、私の玉の周りをじわじわと制圧していく。
盤上を見渡せば、私の最強戦力である「飛車」と「角」はまた機能を失っていました。
盤上戦力値で言えば、間違いなく私の方が上。
それなのに、迫りくる四枚の金銀という鉄壁の包囲網とスピードを前に、私の飛車角は一歩も動けず、ただの木片へと成り下がっています。
最強の武器は、鎮座したまま、その使い道すら見出せず、呼吸することさえできません。
論理的には勝っているはずの盤上で、物理的な「圧」に窒息させられる屈辱。
投了。三連敗。言い訳の余地もない、完璧な敗北。
沈黙の慈悲
教室を後にし、夕闇の中を歩きながら、ふと、あの「プロに勝った日」の光景を思い出しました。
なぜ、あの日の私は勝てたのか。なぜ、今日の私はさらに四枚も駒の足りない相手に、掠り傷一つ負わせられなかったのか。
脳内ででた答えは、あまりに無慈悲。
かつての勝利は、私の実力などではなかった。あのプロの微笑みは、対等な相手への敬意ではなく、未熟な子供をあやすような、深い深い「慈悲」だった。私は、勝たせてもらっていただけなのです。
自分の本当の姿が見えていない。あるはずのない実力を「ある」と思い込み、施された慈悲を「勝利」と履き違える。過去の栄光に目が眩み、盤上の現実を見失う。
私は、自分が思っているほど強くもなければ、冷静でもない。
「……さて、次はどの駒を落としてもらおうか」
敗北の味は苦いが、その苦味こそが、傲慢な私の「視界」を、少しだけクリアにしてくれるような気がしました。
将棋教室の勧め
今回お邪魔した将棋教室は、1回2時間のたっぷりとしたレッスンで月謝4,000円。
ところが、親子で申し込むと「親子サービス」が適用され、1人あたり500円引きの月額3500円になりました。
1時間あたりに換算すれば、わずか一人1時間875円。
これほど濃密な知の格闘技を、これほどリーズナブルに楽しめるのかと、その相場感には正直「へえ」と驚かされました。
浮いた500円で、負けの口直しに美味しいコーヒーでも飲んで帰る。負けはしたものの、コスパ最高、大満足の1日。
将棋を人と指してみたいけど、なかなか周りにいないという方、思い切って、飛び込んでみると、そこでは素敵な体験がまっていると思います。